信玄公ゆかりの寺
武田信玄と恵林寺
今から450年有余年をさかのぼる戦国時代、関東から中部、そして東海地方を席巻、近畿圏にまでその名を轟かせた甲斐国の名将、武田信玄は、文字通り“名将”の名にふさわしい数々の事績、エピソードを今日に伝える乱世の代表的武将といわれています。
「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は適なり」という有名な歌は、家臣・領民を愛する“信玄精神”発露の詠歌とされていますが、信玄は常に自分が一軍の将、一国の大守として自由自在に采配がふれるのは、家臣、そして領民たちの力によるものとの報恩感謝の念を忘れず、善政を施したと伝えられています。この現われが歌意となり、また領民の信玄に感謝する気持ちも表現されているようです。
その不世出の英雄武田信玄も病魔には勝てず、生者必滅の摂理に従って元亀4年(1573年=この年7月に天正と改元される)4月12日、53歳を一期として上洛戦途次、信州・駒場の陣中で病没したのです。この10年ほど前に信玄自ら菩提寺と定めていた乾徳山恵林寺で信玄没後4年目に武田勝頼を喪主としての大葬儀が執行されています。
大導師をつとめた快川国師は、信玄参禅の師であり、信玄が戦国武将として、また戦国大名としての人間形成、修養の上でも重要な役割を果たした名僧でした。
「安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火自から涼し」これは天正10年(1582)4月3日、恵林寺が織田信長の大軍に包囲され、焼き討ちによって全山ことごとく灰燼に帰した際、炎上する三門楼上で唱えた快川和尚の遺偈として知られています。臨済宗妙心寺派の恵林寺は、鎌倉時代末期に七朝帝師とうたわれた名僧夢想国師によって建立された禅林で、かつては関東における関山派別格中本山と寺格を有し、江戸時代から明治、大正期に至るまで、峡中禅窟と呼ばれる唯一の禅道場でありました。歴代住職はほとんど日本史、仏教史上に名をとどめる名僧、高僧であったことから、優れた寺宝も多く、とくに歴史博物館・信玄公宝物館には戦国武田氏、信玄に関する文化財が常設展示として年間を通じて一般公開されています。
「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は適なり」という有名な歌は、家臣・領民を愛する“信玄精神”発露の詠歌とされていますが、信玄は常に自分が一軍の将、一国の大守として自由自在に采配がふれるのは、家臣、そして領民たちの力によるものとの報恩感謝の念を忘れず、善政を施したと伝えられています。この現われが歌意となり、また領民の信玄に感謝する気持ちも表現されているようです。
その不世出の英雄武田信玄も病魔には勝てず、生者必滅の摂理に従って元亀4年(1573年=この年7月に天正と改元される)4月12日、53歳を一期として上洛戦途次、信州・駒場の陣中で病没したのです。この10年ほど前に信玄自ら菩提寺と定めていた乾徳山恵林寺で信玄没後4年目に武田勝頼を喪主としての大葬儀が執行されています。
大導師をつとめた快川国師は、信玄参禅の師であり、信玄が戦国武将として、また戦国大名としての人間形成、修養の上でも重要な役割を果たした名僧でした。
「安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火自から涼し」これは天正10年(1582)4月3日、恵林寺が織田信長の大軍に包囲され、焼き討ちによって全山ことごとく灰燼に帰した際、炎上する三門楼上で唱えた快川和尚の遺偈として知られています。臨済宗妙心寺派の恵林寺は、鎌倉時代末期に七朝帝師とうたわれた名僧夢想国師によって建立された禅林で、かつては関東における関山派別格中本山と寺格を有し、江戸時代から明治、大正期に至るまで、峡中禅窟と呼ばれる唯一の禅道場でありました。歴代住職はほとんど日本史、仏教史上に名をとどめる名僧、高僧であったことから、優れた寺宝も多く、とくに歴史博物館・信玄公宝物館には戦国武田氏、信玄に関する文化財が常設展示として年間を通じて一般公開されています。
乾徳山恵林禅寺の歴史
武田氏の菩提寺、信玄公の牌所のある禅寺。夢窓国師の開山。永禄年中に信玄公が寺領300貫を寄贈し、快川紹喜を招いて住職とした。天正10年(1582)4月3月、織田信長によって火を放たれ、快川和尚は一山僧衆100余命とともに山門楼上で焼殺された。このとき快川の名言「安禅は必しも山水をもちいず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」はあまりにも有名である。
信玄公ゆかりの寺・写真募集
慈雲寺 (甲州市)
南北朝時代の慶応年間(1338~1342年)に京都と鎌倉を往き来して、京都の天龍寺や甲州市恵林寺などを開山した僧として有名な夢窓疎石によって開かれたと伝えられてる。学問の神様である菅原道真公を描いた信玄筆の『紙本着色 渡唐天神像図』が伝えられている。慈雲寺のイトザクラは、甲州市の天然記念物に指定されており、樹齢は300年程と言われ枝をよく四方に垂らしていて、春には美しい花を咲かせて楽しませてくれる。
甲斐善光寺 (甲府市)
信玄公によって永禄元年(1558)に創建。戦国時代、長野の善光寺が武田、上杉の川中島の合戦によって焼失するのを防ぐため、本尊以下の諸仏や寺宝類を甲府に移し、信玄公自ら開基となった。現在の本堂は、一度焼失したものを、江戸時代の明和3年(1766)から30年という歳月をかけて再建したもの。全国から信者を集め、本尊床下を巡って参拝する「お回壇めぐり」で賑わっている。武田神社 (甲府市)
信虎、信玄、勝頼と、武田三代の住居と政庁をかねた本拠跡。北、西、東の三方の山を背に、南に甲府盆地を一望する。周囲に高さ3メートルの土塁と堀をめぐらし、四門を開いている。面積約4万6千平方メートルの地域のなかに、主殿を置く中曲輪(なかぐるわ)を中心とし、東曲輪と、堀をへだてて西曲輪があった。追手門の外には馬出とよばれる防塁があり、これは甲州流の築城法といわれる。雲峰寺 (甲州市)
僧・行基がこの地で修行していたところ雷が落ち、大石が割れ、なかからハギの大樹が生じ、また十一面観音が出現したしたという。行基はこのハギの木に十一面観音を刻み、雲峰寺を開山したと伝えられる。スギとヒノキの木立にかこまれた参道を百数十段登ると仁王門に出、さらに30段登ると境内にはいる。茅葺の庫裏(くり)、庭園に囲まれた書院と友に、国の重要文化財。向嶽寺 (甲州市)
甲州市にある塩の山南麓、奈良の仏都をおもわせるたたずまいだ。臨済宗向岳寺の大本山。室町時代建立の築地塀は、塩のにがりの固まるちからを利用して作られたという特殊技法による。中門、法華堂裏の庭園に、室町の風情がある。向岳寺の秋葉神社の祭典は4月18日。桜の名所であり、、御札をうける参拝者と花見客とが集まり晴やかに賑わう。大善寺 (甲州市)
養老2年(718)行基の開山といわれ、歴代朝廷の祈願所と定められた。現在の本堂は鎌倉時代のもので甲州最古の寺院建築。暴風雨によって倒壊したが、信玄公が修築した。毎年5月8日に境内で行われる「藤切会(ふじきりえ)式」は、大蛇にかたどった約12メートルの藤づるを神木に吊下げ、法印が刀で切り落とす。この藤づるを持ち帰ると無病息災、豊作を得られるという。菅田天神社 (甲州市)
平安時代の創建。武田氏の祖・新羅(しんら)三郎義光が甲斐守として入国以来、武田家代々の守護神として崇敬された。本田をはじめ各諸殿が整っており、歴史の古さを物語る。武田氏の総領の印として代々伝えられてきた鎧・国宝『楯無鎧(たてなしのよろい)』を保存する。楯を必要としないほど堅固な鎧という意がこめられている。境内のカシ群は貴重な自然の眺めだ。広厳院 (笛吹市)
宗洞宗の根本道場。守護武田信昌が外御(げご)となって寺領を寄進した。弘治2年(1556)信玄公は祖母を開基に準じ、菩提のためにさらに寺領を寄進した。本尊は聖観音、薬師如来、十一面観音。寺の鐘は文化財で、総高118センチ、口径64センチ。嘉暦2年(1327)大工兵衛大夫大江信光の作と伝えられる。観音会式は4月16日で、盛大だ。一宮浅間神社 (笛吹市)
一宮(いちのみや)町一ノ宮にある甲州随一の旧国幣中社の古社。建久5年(1194)源頼朝が社殿を造営したことが「吾妻鏡(あずまかがみ)」に記されている。戦国時代には信玄公が太刀、社領などを寄進して信仰。現在の社殿は江戸時代のもので、神門、神楽殿、拝殿、社務所などが立ち並び、古社の威厳を誇っている。年祭りは4月15日で「おみゆきさん」の名で親しまれる。慈眼寺 (笛吹市)
山号は金剛寺。桃畑に囲まれ、浅間神社から約500メートルの距離。本堂は万丈形式、本尊は千手観音。武田家の祈願寺として多くの寺宝をもつ。信玄公直筆の「信州長沼馬上の廻文」や、勝頼が戦場で自刃する直前に託した秘法などを所蔵している。本堂と楼門は、桃山式建造物。大蔵経寺 (笛吹市)
大蔵寺山の麓にある武田家の祈願所。越後攻めにあたって信玄公も廻文をし、戦勝祈願を命じている。江戸時代は談林として宗学研究所であり、また甲州城代の祈願所として栄えた。この寺の南500メートルの地に、武田氏居館跡がある。信玄公の父、信虎の初期の居館といわれている。石和八幡宮 (笛吹市)
石和五郎信光が鶴岡八幡宮を勧請して建久3年(1192)に創建した古社で、石和八幡ともいう。武田家との関係も深く繁栄したが、天正10年(1582)織田の兵火によって焼失した。4月はじめの祭りは華やかだ。のちに、徳川家康が再興。甲斐国の歴代の城主、甲斐勤番支配も崇拝し、本殿には、その参拝の記録も残されている。江戸初期以来の絵馬も貴重だ。成就院 (笛吹市)
ブドウ・梨の果樹地帯として知られる石和は、武田氏祖先のちでもある。成就院は武田の祖・新羅三郎義光の孫、清光が12世紀の中ごろに開いた寺で、当時は清光院といい、真言宗の寺だった。この寺は備えをしては焼失、再建、というふうに、時代の変換とともに宗派、所属が転変し、そのつど山号も変わり、戦国の歴史の断面を物語ってて興味深い。能成寺 (甲府市)
信玄公は神仏を崇敬する念が強く、とくに臨済宗妙心寺派に帰依し、京都の本山をはじめ、末寺から同派の名僧を甲斐へ招いた。そして機会あるごとに参禅し、経書や詩文の死と仰ぎ、教養を身につけることに精進した。能成寺も、このようにして信玄公がさだめた甲府五山のひとつである。境内には武田家、江戸期における交付勤番氏らにゆかりを持つ墓が多い。東光寺 (甲府市)
開創は古く、鎌倉時代建長寺を建てた中国の名僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師の開山。甲府五山の二位に定められた臨済宗の寺。現在の仏殿は室町時代の再建。入母屋造、ひわだぶきの唐様建築で国の重要文化財。本尊には薬師如来像が祭られている。庭園は山すそを利用、枯滝を中心として力強い石組みの構成。前面に舟石のある小さな池を配す。信玄公の長男義信の墓がある。長禅寺 (甲府市)
愛宕山の山すそには、信玄公が「甲府五山」として称して帰依した臨済宗の寺があり、武田三代の盛衰を訪ねる格好の散策路となっている。長禅寺は信玄公の母、大井夫人の菩提寺。「春は花 秋はもみじのいろいろも 日かずつもりてちらばそのまま」という大井夫人の辞世の一首がのこされている。大泉寺 (甲府市)
信虎によって開かれた祈願所、菩提寺。信虎の墓を中に、信玄公と勝頼公の供養等がある。信虎は甲斐国の守護として甲府を誕生させ、館をおいて国内を統一し、戦国大名の地位を築いた。しかし、長男の信玄公と民衆の心をつかむうえで意見が合わず、娘婿の駿河の今川義元のもとへ追われ、再び甲斐の地を踏むことはなかった。死後、大泉寺に葬ったのは、孫の勝頼である。円光院 (甲府市)
甲府五山の一。16歳で嫁ぎ、50歳でこの世を去った信玄公の正室三条夫人の生涯が太い老松の下に眠っている。左大臣三条公頼の娘。嫁いだとき、信玄公は16歳で、晴信として元服したばかりだった。亡くなったのは信玄公の死の3年前。信玄公の墓はここより南、10分。信州伊那で生涯を閉じたときの遺言によりここで火葬され、その喪は3年秘された。法泉寺 (甲府市)
甲府五山の一。勝頼の墓がある。勝頼は天目山で自刃したあと、信州伊那谷において織田信長に首実験され、京都に送りさらされた。この首をもらいうけ、葬儀を行なったのは花園・妙心寺住持の南化玄興和尚であり、妙心寺のかたわらに手厚く葬った。このとき法泉寺の快岩和尚が居合わせ、勝頼の歯と髪を秘かに甲斐に持ち帰って、法泉寺に埋めた。塩澤寺 (甲府市)
一年に一度願いを聞いてくれるということで庶民信仰を集める。「厄地蔵さん」は、湯村温泉郷に春を告げる祭りだ。2月13日、14日の祭典には10数万人の参拝者で賑わう。この2日に参拝者が集中するのは、地蔵さんの耳が13日の正午から翌14日の正午までしか開かないという言い伝えによる。寺の創立は明確ではないが、弘法大師が諸国を巡ったときに訪れ開いた霊場といわる。金桜神社 (甲府市)
昇仙峡の上流2.5キロ。樹齢を誇る杉木立に囲まれた金桜神社は金峰山の里宮。修験者、山伏らの山岳道場としての歴史を持ち、武田氏代々の厚い加護を受けて栄えた。その信仰は関東全域、信濃、越後にも及び、神社周辺には信者を世話する御師(おし)の家が立ち並んで賑わい、各地の文化が交流する芸能の地でもあった。山伏達は信玄公の山岳兵、情報収集の兵としても活躍した。