主な常設展示目録
甲斐国有数の古刹として知られる臨済宗妙心寺派・乾徳山恵林禅寺は、歴史上に名高い戦国武将武田信玄、また江戸時代中期に徳川五代将軍綱吉の補弼役として文治派政治を推進した大老格柳沢吉保とその正室定子夫妻の菩提寺になっています。
恵林寺が所蔵する国・山梨県・甲斐市指定の文化財は豊富で、おそらく一ヶ寺が所蔵する件数としては県下五指のうちに数えられるものと思われます。これらはいずれも甲斐における中世の禅文化復隆をはじめ戦国武田氏滅亡の歴史を知る上で、きわめて重要な資料となり得るものであろうと確信しております。
恵林寺が所蔵する国・山梨県・甲斐市指定の文化財は豊富で、おそらく一ヶ寺が所蔵する件数としては県下五指のうちに数えられるものと思われます。これらはいずれも甲斐における中世の禅文化復隆をはじめ戦国武田氏滅亡の歴史を知る上で、きわめて重要な資料となり得るものであろうと確信しております。
1 | 兜 伝・信玄所用 | 28 | 古府中躑躅崎館図 |
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2 | 軍配 伝・信玄愛用 | 29 | 新府城縄張の図 |
3 | 甲冑 伝・武藤喜兵衛(真田昌幸)所用 | 30 | 甲陽軍鑑初版本 |
4 | 軍旗 風林火山の旗 | 31 | 信玄全集 |
5 | 軍旗 諏訪法性の旗 | 32 | 和漢朗詠集 |
6 | 輪袈裟 信玄所用 | 33 | 信玄幕下信濃諸士起請文 |
7 | 大身の槍 原大隅所用 | 34 | 信玄筆、小倉百人一首 |
8 | 鎧不動尊像 武田逍遙軒・作 | 35 | 信玄観桜之歌色紙 |
9 | 鎧不動尊画像 逍遙軒・筆 | 36 | 鉄鉢(夢窓国師所用) |
10 | 夢窓国師画像 (伝・曇芳周応・筆) | 37 | 武田24将の図 |
11 | 快川国師画像 (快川国師自賛) | 38 | 甲州古図 |
12 | 末宗禅師肖像 | 39 | 甲信諸士起請文 |
13 | 戦勝の舞扇絵図 (伝・信玄愛用) | 40 | 恵林寺子院寺領安堵状 |
14 | 上杉謙信書状(北条父子宛) | 41 | 古鋸(未宗禅師所用) |
15 | 武田信玄証文(恵林寺・寺領寄進状) | 42 | 虎の金屏風(狩野元信・筆) |
16 | 河浦湯屋造営下知状(永禄4年) | 43 | 菊蒔絵香道具 |
17 | 信玄書状(徳川殿宛) | 44 | 面壁達磨之図 然可扇筆、信玄寄進 |
18 | 信玄書状(徳秀斉宛) | 45 | 武田松姫消息文 |
19 | 信玄書状(佐々伊豆守宛) | 46 | 柳沢吉里・筆 信玄軍陣影 |
20 | 渡唐天神図 信玄筆・快川国師賛 | 47 | 川中島合戦連勝記、快川国師・筆 |
21 | 天正玄公仏事法語 | 48 | 信玄愛用アブミ |
22 | 見桃録 | 49 | 信玄愛用の鞍 |
23 | 青表紙(寺領検地帳、年貢帳) | 50 | 狩野洞元邦信・筆、信玄画像 |
24 | 信玄画像(柳沢吉里・筆) | 51 | 金蒔絵料紙文庫 |
25 | 川中島合戦武田陣備えの図 | 52 | 蒔絵文台 |
26 | 武田兵法由来略記 | 53 | 版木、版画、竜湫周沢・作 |
27 | 築城の図 | 54 | 不動尊画像・筆 枯木紹栄 |
上記の常設展示の他に当館には約400点以上の収蔵品が収められており、その一部を定期的に変更して展示しています。再度ご来場いただいた際には新しい宝物との出会いがあるかもしれません。
重要文化財 太刀・来国長 一口
指定年月日 大正4.3.26国指定
時代・形状 室町時代、糸巻太刀拵付き
保管・管理 (財)信玄公宝物館
時代・形状 室町時代、糸巻太刀拵付き
保管・管理 (財)信玄公宝物館
武田信玄所用の佩刀と伝えられるこの太刀は、宝永2年(1705)、甲斐国15万石を受封した甲府城主柳沢美濃守吉保が信玄菩提寺の恵林寺へ寄進したもので、金梨地の蒔絵の中に散らされている郡山四つ花菱紋(柳沢家定紋)の糸巻太刀拵えは、吉保が奉納に先立って新装か補修の折につけられた作と考えられる。
重要文化財 短刀 一口
指定年月日 大正4.3.26国指定
時代・形状 室町朝時代
保管・管理 (財)信玄公宝物館
時代・形状 室町朝時代
保管・管理 (財)信玄公宝物館
武田信玄所用の短刀と伝えられ、切銘は「備州長船倫光」とある。刀工の長船倫光は相伝備前系の名工兼光(相州正宗門人)の子ども、弟子とも伝えられる南北朝時代の刀鍛冶で、この兼光系には建武期(1334~1337)と貞治期(1362~1367)に活躍した二人の倫光が存在していたため、初代をリントモと呼んで区別している。二代目の倫光はリントモの子といわれるが、本短刀は初代のものである。
六十二間筋兜 一頭
指定年月日 昭和49.8.30市指定
時代・形状 室町朝時代、当世具足兜鉢
保管・管理 (財)信玄公宝物館
時代・形状 室町朝時代、当世具足兜鉢
保管・管理 (財)信玄公宝物館
鉄地板62枚を矧ぎ合わせた、筋兜で、形式名称を六十二間筋兜という当世具足の兜鉢である。 伝承では武田信玄所用と伝えられており、胴部は鉄と牛革を用いた小札を若干残すだけで整わず、鉢だけが指定対象となった。
本兜の作者は明珍式部宗介の「極め状」により明珍勝義となっている。勝義は甲冑師の名門家で16代善保の弟にあたり戦国末の享禄~天文年間に活躍している。甲斐武田氏と関係の深い名工信家には叔父にあたる。鉢周り、六枚のしころ、面頬当てに金蒔絵が施されている以外は装飾らしいものはなく、それが質実剛健の気風を尊んだ戦国武将所用らしさを知る遺品といえる。
本兜の作者は明珍式部宗介の「極め状」により明珍勝義となっている。勝義は甲冑師の名門家で16代善保の弟にあたり戦国末の享禄~天文年間に活躍している。甲斐武田氏と関係の深い名工信家には叔父にあたる。鉢周り、六枚のしころ、面頬当てに金蒔絵が施されている以外は装飾らしいものはなく、それが質実剛健の気風を尊んだ戦国武将所用らしさを知る遺品といえる。
伝信玄所用 軍配団扇
指定年月日 昭和49.8.30市指定
時代・形状 鉄製枠、長さ45.0cm、幅25.5cm
保管・管理 (財)信玄公宝物館
時代・形状 鉄製枠、長さ45.0cm、幅25.5cm
保管・管理 (財)信玄公宝物館
寺伝によると武田信玄が愛用したとあるが、確たる資料に裏づけされたものではなく、伝承として今日に言い伝えられてきたものである。軍配は正しくは「軍配団扇」といい、一軍の将が戦陣の駆け引き、進退を指揮するために用いた武具の一種で、とくに戦国時代に諸州の武将たちの間に流行した。
武田軍旗「孫子の旗」一旒・武田軍旗 諏訪神号旗
指定年月日 昭和55.9.18県指定
保管・管理 (財)信玄公宝物館
保管・管理 (財)信玄公宝物館
武田軍旗「孫子の旗」と
武田軍旗
諏訪神号旗
武田軍旗
諏訪神号旗
武田軍旗「孫子の旗」
戦国の武田軍が常に陣頭に押し立てた軍旗と伝えられ、近年は「風林火山」として一般化された呼び方になっている。
「-故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以変を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、その徐なること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと蔭の如く、動くこと雷震の如し(後略)」とあり、孫子の兵法のなかでも代表的な名言とされています。 武田軍旗 諏訪神号旗
「孫子の旗」とともに武田の軍旗として用いられた諏訪神号旗は、別に戦勝祈願の旗印ともいわれ、信玄が軍神として尊崇する諏訪明神(長野県諏訪市諏訪大社)の英武にあやかって、諏訪明神旗、諏訪梵字旗の3種類の総称でもある。
戦国の武田軍が常に陣頭に押し立てた軍旗と伝えられ、近年は「風林火山」として一般化された呼び方になっている。
「-故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以変を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、その徐なること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと蔭の如く、動くこと雷震の如し(後略)」とあり、孫子の兵法のなかでも代表的な名言とされています。 武田軍旗 諏訪神号旗
「孫子の旗」とともに武田の軍旗として用いられた諏訪神号旗は、別に戦勝祈願の旗印ともいわれ、信玄が軍神として尊崇する諏訪明神(長野県諏訪市諏訪大社)の英武にあやかって、諏訪明神旗、諏訪梵字旗の3種類の総称でもある。
期間限定公開の展示 【2011.04.11現在】
天目山 栖雲寺から貸し出されている期間限定公開の信玄公ゆかりの宝物。近世社会になると「武田信玄公」追慕の想いから、中世以来の社寺などに追善のための奉納品を納める風潮が見られる。当寺も武田信満や武田勝頼との由緒を伝える寺であることから、これからのものが奉納されたものであろう。1 | 兎文鎮 | 4 | 天正壬午甲信諸士起請文 |
---|---|---|---|
2 | 銅鏡 | 5 | 甲州古城勝頼以前図 |
3 | 鉄製軍配 | 6 | 川中島配陣図 |
兎文鎮
所蔵 天目山栖雲寺
兎形文鎮は、信玄が幼少の時から愛用したものと伝えられている。
銅鏡
所蔵 天目山栖雲寺
古来から銅鏡は神霊を象徴する神聖なものとして、礼拝の対象となったものである。また、神意を問い、未来の吉凶を判断・予想する占いなどの道具として用いられたものか。
鉄製軍配
所蔵 天目山栖雲寺
軍配団扇は、戦陣の指揮をとうる際に用いられるもので、戦勝祈願の奉納品になることもあった。本品は、鉄製で中心部に水晶をはめ込み、扇面部に日月と七曜星(北斗七星)を配している。
天正壬午甲信諸士起請文
天正10年(1582)3月11日、武田勝頼滅亡の7月・8月に信濃・甲斐の諸武士が、徳川家康に忠誠を誓う起請文を提出した。武士らの姓名を記録したものとなっている。
この源本は武田氏の家臣であった田澤家に伝えられたもので、これを享保18年(1733)田澤源太郎義章は、書写し一軸にして、恵林寺の信玄廟所に奉納した。末尾に元文2年(1737)4月5日恵林寺の大伽和尚の名が認められる。
甲州古城勝頼以前図
武田信虎・信玄・勝頼3代の居館であった「躑躅ヶ崎館」(1519-1581)の図。原図は万治3年(1660)幕名によって甲州を巡見した小峰弘致の覚書「甲国聞書」の付図である。「躑躅ヶ崎館跡」は、国指定史跡「武田氏館跡」であるが、東曲輪には大正8年(1919)に武田神社が創建された。
川中島配陣図
第4回川中島の合戦における、武田・上杉両軍の配陣や進軍の道筋を図にしたもの。武田軍の動きをいち早く察知した上杉軍は、その居場所を欺くため西條山にかがり火をかかげ、陣がなおそこに留まっているようにみせかけながら夜のうちに山を降り、早朝に奇襲をかけた。