武田信玄公

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武田信玄公

武田信玄公肖像画
武田信玄公肖像画 信玄公は大永1年(1521)11月3日、信虎の嫡男として甲府・積翠寺の要害城に生まれ、幼名を太郎といい、長じて元服のとき、将軍足利義晴より一字を賜って晴信と名乗った。のち入道して信玄と号し、また法性院、徳栄軒とも号した。
 信玄公は青年時代から詩歌に長じ、とくに寸暇を惜しんで宗派を問わず知識、英衲とうたわれた名僧、高僧に私淑し、五山派文学をはじめ、中国古代の兵法家孫子の兵法などにも熟通、とくに臨済禅の奥義を極め、これによって得た心機、修養を軍略外交、内政面に応用した。信玄が戦国期における武将、軍略家であったと同時に、すぐれた民政家であったというのもこうした青年時代の努力があったからなのである。
 天文10年(1541)6月14日、信玄公父・信虎を駿河・今川義元のもとに追放し信虎の戦費調達による重税に苦しむ甲斐国内に起こりかかった反乱を、父親追放という大きな代償を払うことにより未然に防いだのである。このため長い間、諸国の武将から“最大の親不孝者”というそしりを受けながらも「大儀親をも滅す」の故事を理解する多くの優れた武将たちに励まされ、国力を強め、領民の生活安定、民心の収攬につとめた。
 生涯における合戦の数は130余たび。21歳で甲斐守護職に任じてから、53歳の生涯をまっとうするまで、一度も敵を甲斐の国に入れなかった。「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵なり」の、こころの政策は信玄公の理念だ。武力に頼るばかりの勝利や、名声を得ることよりも、治国安民、ふるさとの将来が豊かなものになるかどうかに、戦国大名としての勝敗の基準をおいた。信玄公はなによりも民衆の立場に立ち、国を富ませることを第一とした。軍政としては、騎馬軍団武田24将に代表される組織を育成した。内政においては、釜無川の氾濫をくいとめる治水工事などを完成した。いずれも甲州の意思をひとつにし、国を創造していこうという理想に基づく。

信玄公にまつわる宝物

扇面図絵
扇面図会 信玄公愛用の舞扇。金地著色、日輪に五葉松、金雲をなびかせた吉祥大和風の画法。信玄から六女松姫(八王子で尼となる)に贈られて今日に伝わる。

花菱紋蒔絵鞍
花菱紋蒔絵鞍 信玄公愛用と伝えられる鞍はいくつかあり、これもそのうちのひとつである。
あきらかに軍事用目的で作られた形をしてる。総体的に黒漆塗り、孔の覆輪には金蒔絵を施してあり、前輪、後輪の海や磯と呼ばれる部分にも同じく金蒔絵で花菱紋を配している。
武田氏の場合、一般的に「武田菱」が定紋とされているが、これは信玄時代に限られ、「花菱紋」信玄を含め3代が常用している。

武田晴信(信玄)の墓 一基
武田晴信(信玄)の墓 一基 武田晴信すなわち信玄の墓塔のことで、信玄が永禄7年(1564)12月1日、自らが菩提寺と定めた恵林寺本堂西側の信玄霊廟「明王殿」裏手に存在する。この墓所を霊域と称するが、面積184.8平方メートル(56坪)が史跡指定地で、ここに全高349.6cm(うち3段台座69cm)の五輪塔一基(右側)と全高369.6cm(台座同、左側)の宝篋印塔(一基)が建立されている。
信玄公武田信虎の嫡男で大永元年(1521)11月3日、甲府・石水寺(積翠寺)の要害城で出生、天文10年(1541)21歳で甲斐国主となった。戦国期を代表する知勇兼備、詩歌等の学芸にも長じた名将と言われ、上洛戦途次の元亀4年(1573、天正1年)4月12日、信州・駒場(下伊那郡)の地で53歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。病死と伝えられるが、死因については諸説あって特定されていない。
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