武田24将

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武田24将

江戸の画家“松本楓湖(まつもとふうこ)”が描いたとされる24将それぞれの肖像画を長い年月をかけ修復いたしました。大河ドラマ放映期間中展示いたしますので、美しくなった24将図をぜひご覧ください。
武田24将図
「武田24将」に対する一般的なイメージは戦国時代、甲斐の名将・武田信玄ひきいる“常勝無敵・甲州軍団”の中核として、その精鋭の陣頭に立ち、幾多の合戦場面で華々しい活躍をみせ、天下に勇名を轟かせた信玄配下の猛将剛将たち24人・・・。ではないでしょうか。


“武田24将”について
武田左馬助信繁
たけださまのすけのぶしげ
24将 武田左馬助信繁 信繁は大栄5年(1525)、信虎の二男として生まれた。兄の信玄に劣らず聡明で、長ずるに従い文武両道に優れた人物だった。
永禄4年(1561)8月、上杉謙信と信玄は川中島の八幡原で決戦。武田軍は上杉軍を前後から攻撃する“きつつきの戦法”を策したが、逆に奇襲を受けてしまった。大混乱に陥った本陣を、信繁は死力を尽くして守り抜き、花々しい戦死を遂げた。
武田刑部少輔信廉
たけだぎょうぶしょうゆうのぶかど
24将 武田刑部少輔信廉 逍遙軒(しょうようけん)と言ったほうがよく知られている。信虎の三男で信玄、信繁の同母弟である。川中島合戦後、信繁亡き後は親族衆の筆頭として信玄を補佐した。
信廉の容貌は信玄に酷似していたといわれ、数々の合戦で“影武者”をつとめ、信玄没後も敵を欺くために信廉が身代わりをしたという話も伝えられている。

穴山玄蕃頭信君
あなやまげんばのかみのぶきみ
24将 穴山玄蕃頭信君 信君というより梅雪といった方が一般によく知られている。武田親族集筆頭頭格のたちばである穴山梅雪は多くの人が「武田家滅亡直前、徳川に寝返った離反者」というが、本当に自欲のためだけで武田家を裏切ったのだろうか? しかし現在では武田家救済のため、あるいは武田の家名存続を求めるため、家康を頼っての離反であったとの見方もされている。
板垣駿河守信方
いたがきするがのかみのぶかた
24将 板垣駿河守信方 板垣氏は武田氏の族臣として代々活躍した。信方は信虎信玄の二代にわたり武田の重鎮として重きをなした譜代の老臣である。
信方の手腕力量を高く評価していた信虎は、信玄の伝役(もりやく)に任じ、信方は信玄の武将教育に尽力した。『甲陽軍鑑』には、信玄を嫌う信虎の前でいつも信玄をかばったとされている。また文学に熱中しすぎた信玄を死を賭して諌めたというエピソードは勇名である。

甘利備前守虎泰
あまりびぜんのかみとらやす
24将 甘利備前守虎泰 虎泰は信虎信玄の二代に仕え、信虎の代からの侍隊将である。板垣信方、飯部兵部らとともに合戦では常に先陣をつとめた剛の者として知られている。
信玄自身も負傷し、初の負け戦となった天文17年(1548)2月、信州上田原での村上義清との6時間にもおよぶ激闘で、板垣信方らとともに武運尽きて戦死した。
馬場美濃守信春
ばばみのかみのぶはる
24将 馬場美濃守信春 有名な長篠の合戦で勝頼に帰陣を勧めたが受け入れられず、武田軍は壊滅的な打撃を受けた。敗走する武田軍のしんがりという、最も困難な役目を引き受け、安全圏に勝頼が脱出するのを見届けると、馬首をかえして敵陣におどり込み華々しく討死した。

飯部兵部少輔虎昌
おぶひょうぶしょうゆうとらまさ
24将 飯部兵部少輔虎昌 虎昌は「甲山の猛虎」と恐れられた豪勇で、板垣信方とともに信虎信玄二代にわたって活躍した宿将である。飯部虎昌が率いた飯部隊は「飯部の赤備え」と言われ、騎馬武者から兵卒に至るまで一人残らず武具、差し物、馬具の全てを赤一色に統一していた。赤一色の飯部隊の突撃は火の玉が飛ぶような勢いを見せ、敵は戦う前から戦意を失ったという。
山県三郎兵衛尉昌景
やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ
24将 山県三郎兵衛尉昌景 信玄勝頼の二代に仕え、合戦、戦略、外交、治安、内政などにわたり主君の手足のように動き回り活躍した武将である。飯部兵部少輔虎昌の弟で、兄に劣らぬ勇将の片鱗を見せた。
長篠の合戦で、武田軍の劣勢を挽回しようと敵陣に突入した昌景は全身に数弾受けたが、落馬せず采配をくわえたまま絶命したといわれている。

高坂弾正忠昌信
こうさかだんじょうのじょうまさのぶ
24将 高坂弾正忠昌信 信玄勝頼代における代表的な知将である。信玄の寵童だったとも言われている。武田家の滅亡を知ることなく52歳で病没した。
後世、昌信の著と伝えられる『甲陽軍鑑』は、武田家興亡の歴史をはじめ武田流と呼ばれる軍学の理論、兵制、軍団の編成と構成、兵器の解説、さらに訴訟公事などが盛り込まれている書で、徳川時代、武家の軍事教科書として広く愛読された。
真田弾正忠幸隆
さなだだんじょうのじょうゆきたか
24将 真田弾正忠幸隆 「六連銭」の旗印で有名な信州の名流真田氏の氏祖である。
信玄が一生に一度の負け戦と言われる村上との戦後、幸隆は策略をもって村上軍をわずかな手勢で撃滅させた話は有名である。これ以後「信玄公あるところ必ず幸隆あり」と言われるほど、輝かしい戦歴を残したことが「真田三代記」などに書かれている。天正元年(1573)5月、信玄の後を追うように世を去った。

内藤修理亮昌豊
ないとうしゅりすけまさとよ
24将 内藤修理亮昌豊 信玄の弟信繁が川中島で戦死した以降甲陽の副将と称されるほどに知略に優れた武将とうたわれた。
長篠の合戦で味方の不利を悟り「力攻めをすれば味方の損害が大きいことは必定。よって長期戦の構えが有利。」と勝頼に進言したが受け入れられず、もはやこれまでと、甲州武田武士の最後を飾り敵の銃火の中へ飛び込んでいったのである。
秋山伯耆守信友
あきやまほうきのかみのぶとも
24将 秋山伯耆守信友 元亀3年(1572)信玄上洛戦の先陣を引き受けた信友は、一軍を率いて伊那谷を進撃した。三方ヶ原の戦いでは、信友は山県昌景隊とともに家康を急追し、命からがら浜松城に逃げ戻った家康は「さても秋山信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男」と言ったといわれる。猛虎猛牛と異名をとるほどの剛のものだった信友の豪胆ぶりが覗われる。

三枝勘解由左衛門尉守友
さいぐさかげゆざえもんのじょうもりとも
24将 三枝勘解由左衛門尉守友 山県昌景ほどの剛の者をも感服させたという守友の戦功は、まず永禄12年(1569)の小田原攻め、三増峠の合戦での働きがある。
長篠の合戦では、守友は信玄の弟・武田信実と鳶ノ巣山に陣どったが、徳川方の率いる4000の軍勢の奇襲攻撃を受け、守友らの防戦も空しく信実、守友らは討死した。守友は38歳だったという。
原美濃守虎胤
はらみののかみとらたね
24将 原美濃守虎胤 合戦に臨むこと38度、全身に受けた向こう疵は53ヶ所を数えたという剛の者として知られている。
虎胤が世を去ったとき信玄は「虎胤は幾多の合戦で限りなき武功をあらわした真の剛の者なり。世人、虎胤を畏敬して鬼美濃と恐れしわが忠臣なり。当家、虎胤のほか美濃を称する者としてなし。」と、勇猛の将の死を悼んだという。

小山田左兵衛尉信茂
おやまださひょうえのじょうのぶしげ
24将 小山田左兵衛尉信茂 信茂は信玄勝頼の二代に仕え、『甲陽軍鑑』によると騎馬200騎を擁する侍隊将とある。現在の都留市に居館を持ち、岩殿山城は防備の山城として警固していた。
『甲陽軍鑑』には、信玄の側近にあって合戦の相談や、進言をする「弓矢の御談合7人衆」の中に信茂が加わっていたとある。若いながらに信玄に信頼されていたことを物語っている。
多田淡路守満頼
ただあわじのかみみつより
24将 多田淡路守満頼 満頼は信州虚空蔵山の砦を守備したとき、火車鬼を退治したという伝説を持つ豪傑であった。火車鬼とは仏典因果経の説く妖婆で、生前に悪事を働いた亡者を火の車に乗せて地獄へ運ぶという仏教経文に出てくる悪心の鬼のことである。つまり満頼の豪勇が現世の及ばない地獄の権力者をも退治できるほどのものであったというたとえなのである。

真田源太左衛門尉信綱
さなだげんたざえもんのじょうのぶつな
24将 真田源太左衛門尉信綱 川中島の合戦で25歳の青年武将として出陣した。永禄10年(1567)頃、今川・北条攻めで先陣につぐ先陣を競って引き受け、信綱の真価を発揮するめざましい活躍を示した。
長篠の合戦で信綱も青江貞次の陣刀をふりかざして敵陣に切り込んでいった。弟の兵部丞昌輝も負けじと斬り込み、真田兄弟は勇戦して敵を倒したが、ついに銃弾の前に壮烈な討死を遂げた。
土屋右衛門尉昌次
つちだうえもんのじょうまさつぐ
24将 土屋右衛門尉昌次 昌次は31歳という短い生涯であったが、武田の若手武将として信玄にその将来を大いに嘱望され、信玄没後は勝頼のよき相談相手となった青年将校であったという。
長篠の合戦で昌次は勇敢にも単騎で馬どめの柵の中に乗り込み、柵を引き倒そうとしたところを鉄砲隊の集中攻撃を受けて戦死したことが『四戦紀聞』の中に書かれている。

横田備中守高松
よこたびっちゅうのかみたかとし
24将 横田備中守高松 信虎信玄の二代に仕えた足軽隊将である。敵の動きによってその戦術を読み取り、先手、先手と手配りしては常に甲州軍を勝利に導いたという知謀の将であった。
村上軍との戦で殿軍をつとめた高松隊が背後から襲い掛かる村上軍と戦う間に、信玄は本陣とともに安全地帯に向かった。しかし、村上軍に包囲された高松は隊1000人とともに戦死した。
小幡山城守虎盛
おばたやましろのかみとらもり
24将 小幡山城守虎盛 父日浄亡き後、14歳で小幡家の跡目を継ぎ、信虎の代にすでに足軽隊将となり、信玄の代には鬼虎の異名をもって知られた剛将であった。
永禄4年(1561)9月の川中島合戦を目前にした6月に病死した。没年は71歳という。虎盛は臨終に際して「よく身の程を知れ」という九文字の遺言を残し、子孫をいましめたと伝えられる。

曾根下野守昌世
そねしもつけのかみまさただ
24将 曾根下野守昌世 昌世は、どの国に対しても先方の動きに疑いがある場合は、私情をはさまず客観的に言上するという役目であった。
武田家滅亡後は家康に従い、武田旧臣を家康に帰属させるための起請文奉行をつとめた。これがいわゆる「天正千午甲信諸士起請文」といい、現在、その写本が恵林寺に保存されている。
原隼人佑昌胤
はらはやとのすけまさたね
24将 原隼人佑昌胤 昌胤は、知将とうたわれた父同様非凡な才能をもち、信玄の期待通りの鮮やかな陣馬奉公ぶりを発揮して「陣取りのことは隼人佑にまかせよ」と信玄にいわしめたほどであった。『甲陽軍鑑』も「他国にて山中などに道知られざる所をも、この隼人にては一見してふみ分けること、武田家中に此人一人なり」と昌胤の地利、地形を見る鋭い才能を称えている。

真田安房守昌幸
さなだあわのかみまさゆき
24将 真田安房守昌幸 昌幸の長兄は源太左衛門尉信綱、次兄は兵部丞昌輝、そして弟は隠岐守信尹である。三方ヶ原の合戦ではこの四人の兄弟が出陣し、真田兄弟の勇名を轟かせた。
武田家滅亡後は織田信長から本領を安堵されたが、その後、家康に従った。しかし昌幸は上杉、北条、徳川などに不即不離の立場をとり、戦国末期に独得な生き方をした。
山本勘介晴幸
やまもとかんすけはるゆき
24将 山本勘介晴幸 武田の軍師であった勘介は『甲陽軍鑑』によると天文12年(1543)に武田の臣となり、永禄4年(1561)の川中島合戦で戦死するまでの19年間、信玄の知恵袋として活躍した知勇兼備の将として知られた猛将であり、武田武将群で一番知名度がある。ところがこれほど勇名でありながら、勘介ほど正体不明な人もいない。戦国ロマンというベールに包まれたなぞ多き人なのである。

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